デジタルとアナログの境界は曖昧

 デジタルが苦手っていう人結構いますよね。私も得意だとは思いませんが、苦手と考えていることについて、人は「普通」に考えられないことをしてしまいます。

 一般的には専門知識があるわけではなくとも、トライアンドエラーを繰り返して「こうすればどうやら動く」「こういうことはしない方がいい」など経験的にわかるようになる。そのうち「機械の呼吸」みたいなものが読めるようになる。これは極めてアナログなリテラシーです。

 でもこれが全く読めない人もいます。

 よくわかんないときに電源を切ってしまうとか、なんかPCが動作しているときにウィンドウを閉じてしまうとか、「普通」にやれば「普通」になんとかなりそうなことをトリッキーにやってしまう。とにかく予想の斜め上を行ってしまいがちです。

 しかし、この「普通」というリテラシーがかなり怪しいというのが現代ではないかと。

機械に対する固定観念

 たとえば音声認識ってGoogle Homeを使い出してからかなり進んでいると感じました。しかし自分は「これは機械である」という前提に未だに囚われているということに気づきます。うまく言葉が伝わらないとき、文章ではなく、こういう単語の組み合わせはどうかとか、playmusicのライブラリに入っている曲が再生されないのは、優先順位がspotifyが先だからとか類推しますね。それはそれで、予測としていい線いっていると思います。

 でも例えば、私の母がSiriに話しかけるとき、そういったリテラシーはない。でも何気に結構、遊んでいる。私には予測できない「人間的な」質問をして、予測できない回答を得て、自分で笑い話にしている。

 同様のことはうちの息子(5)にも言えます。
「オーケーグーグル(そういう名前になっている)って野菜たべるかな?」
「食べないよ」
「本当に食べないの?」(なぜか念を押される)
「…口ないからね」

 どうやらバッタか何かの仲間だと考えているフシがあります(私の頭の中にGooleHomeがパックマンのように口をあけてパクパク草を食べている姿が浮かんだのは言うまでもありません)。もしかしたら、私のみていないところで野菜を与えようとするかも。

 しかし、これは笑い話だろうかと。これからの時代には私よりも、息子はもちろんのこと、あんがい母の方が適性があるんじゃないか。コンピュータはこういうものであるという固定観念がある私より息子、もしかしたらご高齢のかたの方が、未来に近いかもしれない。草を食べるとまでは思わずとも、AIアシスタントに新しい役割を期待できるのは固定観念のない人たちです。

何かに「期待をかける」こと

 デザイン思考ではないですが、AIアシスタントの開発も子供や高齢者にリサーチしているでしょう。やってみないとわからないことだからです。

 これを人に当てはめると人を育てるということは、やはりその人に「期待する」ということだと思うんですね。ここは機械と一緒で、期待されない人やモノは伸びないんじゃないかと。

 それは計算が立つことではない。それ故に「期待をする」という行為自体とても創造的かもしれません。私は誰かが「計算どおり」とはいえない部分で、期待をかけてくれたからここにいる。そこには本質的な遊戯性がある。

 さらに広く言えば、専門知識全般に関してこういうことはおこる。デザインが広く一般に広まるというのは論理や知識として知っているというより、illustoratorみたいなデザイナー向けのツールはもちろんのこと、営業や経理の方でもパワポとか駆使して自分で構成を考えたりすることで、自分のお客さんや上司に情報が伝わる。その成功体験が広がっているということなんだと思うんですよね。

 デジタルが得意って思っている人でも全ての仕組みを把握している人はいないと思います。もはや誰がデジタルが苦手で誰が得意かなんて逆転するし、実践の中ではそれはいくらでも起こっていると思うんですね。もうデジタルとアナログの境目はかなり怪しいのだと思います。

 だから、自分にわからないことはあまり気にしないで聞いて、専門家の意見を複数照らし合わせるというのがいいんじゃないでしょうか。